人種や国籍に囚われない音楽
レイヴ・カルチャーの波
90年代のレイヴブームの興奮ど真ん中の英国で、もっぱら若者の間に流行していた音楽はポストテクノでした。 クラブに行くとハウスミュージックがかかり、踊り疲れて帰路につき、チルアウトを聴きつつ明け方眠りにつく。 翌昼は全身筋肉痛、こんな風に毎週末過ごすのが当たり前。 クラブミュージックが、英国の若者たちの文化的・生活的中心にあったのは確かです。
当時イギリスから帰ってきた22歳の私も、この影響を多分に受けていました。
初めて映画のサントラを作る、それも高校生たちの物語だと聞かされ、これはエレクトロしかない! と、若さゆえの勢いだけで全22曲を二週間で作曲しました。
完成当時、経験不足もあって、録音スタジオではダメ出しを喰わされ、試写会に招いた高校時代の友人にこれで(音楽は)いいの?
と感想をこぼされた、ほろ苦い思い出もあります。
そもそもザ・ビートルズに憧れ、リヴァプールに移り住んだ私に、クラブミュージックへ傾倒するキッカケを与えてくれたのは、flat shareで偶然出会ったPaul Bally。 イギリスはウェールズにルーツを持つ南アフリカ生まれのアングロサクソンで、ネルソン・マンデラを信奉している無職の30歳、というユニークな経歴の持ち主でした。
出会った頃の私は、ちょうど日本の両親のことや学校のことで悩み、塞ぎ込んだ毎日を送っていました。
そんな私を見るに見かねてなのか、人生が変わるから
としつこくクラブに誘うPaul。
全く期待せずついて行った「GARAGE」は、ドリンクチャージのみエントランスフィー(入場料)無しの、労働者階級の若者が僅かなお金を握りしめ通うクラブでした。
猥雑で低俗で、欲望がむせ返る、悪目立ちしている外国人で東洋人の私にとって、一刻も早く立ち去るべき危険な場所に間違いありません。
ですが、何か目に見えないパワーも同時に強く感じました。 それがレイヴのうねりだったのでしょう。新しい音楽がまさに生まれる、文化の萌芽に私は立ち会ったのです。その日をさかいに、私の人生観、音楽へのアプローチは全く変わりました。 ワーキングクラスの同世代に混じって、レイヴカルチャーを全身で浴びたことは、英国で得た最も大きな財産の一つです。