わたしがSuKiサウンドトラック

理想と現実を自在に渡るエレクトロ

レイヴ・カルチャーの波

人種や国籍、肌の色に囚われない音楽

英国でのポールとの出会い

ビートルズに憧れ、リヴァプールに住み始め、暮らしにも慣れ、憧れの街がすっかり日常になっていたある日。引っ越した新しいフラットでポール・ニュートンと彼の恋人、家族たちに出会いました。その頃、私は日本にいる両親との関係、学校での自分自身に悩んでいて、塞ぎ込んだ毎日を送っていました。ポールは当時30歳。南アフリカ出身の白人で、ネルソンマンデラを信奉する、興味深い経歴の持ち主でした。

ある夜、塞ぎ込む私をクラブに連れて行ってくれると言い出しました。乗り気になれない私に、ポールは、今晩、君の人生が変わるよ と食い下がります。日本的慣習で言えば「騙されたと思って〜」に近い雰囲気を感じ取った私は、しぶしぶついて行きました。

エントランスフィー(入場料)は無し、ドリンクチャージだけで賄う、労働者階級の若者が僅かなお金を握りしめ通うクラブ「GARAGE」は猥雑で低俗で、欲望がむせ返る危険な場所に違いありませんでしたが、何か目に見えない力のようなものを強く感じました。いまでこそ、あれがレイヴのうねりだと解りますが、文化とはこうして無形のうちに湧き、沁み出て来るものだと実感しました。あの時現地の若者たちに混じって、レイヴ・カルチャーを全身で浴びたことは、英国で得た最も大きな財産の一つです。気づけば毎週末「今晩行かない?」と逆に誘うようになっていました。いつしか彼の言う通り、私の人生観や音楽に対する姿勢はまったく変わっていました。初めて音楽と出会えた、と思える最高の空間と時間でした。

わたしがSuKi本篇カットより

90年代のレイブブームの興奮ど真ん中の英国で、もっぱら若者の間に流行していた音楽はポストテクノでした。クラブに行くとハウスミュージックがかかり、踊り疲れて帰路につき、チルアウトを聴きつつ明け方眠りにつく。翌昼は全身筋肉痛、こんな風に毎週末過ごすのが当たり前でした。映画「トレインスポッティング」の影響なのか、労働者階級の20代の若者たちも、こぞってレントンみたくスキンヘッドや坊主頭にするのをよく見かけました。とにかく、クラブミュージックが若者たちの文化的・生活的中心にあったのは確かです。

当時イギリスから帰ってきたばかりの22歳の私も、このレイヴカルチャーの影響を多分に受けていました。なので、初めて映画のサントラを作る、それも高校生たちの物語だと聞かされ、これはエレクトロしかない! と、若さゆえの勢いだけで全22曲を二週間で作曲しました。完成当時、経験不足もあって、録音スタジオでは「こんな音源使えねえよ」と文句を言われ、試写会に招いた高校時代の友人に「これで(音楽は)いいの?」と感想をこぼされた、ほろ苦い思い出もあります。

そんな折、またとない機会が訪れました。国立映画アーカイブ主催の上映会で映画『わたしがSuKi』が完成試写以来、久方ぶりに35mmフィルムで上映されたのです。私は改めて当時の自分が音楽で挑戦したかったことをスクリーンを通して再確認し、こうして書き起こすことができました。

愛の砂時計わたしがSuKiわたしがすき

映画の脚本ができるまで

私がまだ渡英する前から、両親には「愛の砂時計(仮題)」というHIV問題を扱う映画の構想がありました。しかしこのHIVの問題を説得力のある脚本にすることが叶わず、長いこと映画化できないまま塩漬けされていました。私の両親は生前、口を揃えてはよくこう言っていました。

映画の良さは脚本で決まる。良い脚本なら映画は半分できたようなもの

日本に戻った時、母は体調が悪く入院していて、成田空港に迎えに来てくれた父とパオ車に乗って、病院へ直行しました。その後も入退院を繰り返しながら、翌年、母はついに自ら脚本を書き上げました。そこに父と私も加わり、皆で意見を出し合ってさらに内容を深めていきました。いつのまにか、映画タイトルは『わたしがSuKi』に変わっていました。とても独自性に富んでいて、パオ作品の中でも大好きなタイトルです。

当初のHIVを扱った内容に加えて、援助交際、性暴力、薬物問題まで扱いながらも自然と「いのち・愛・共生」といった共通のテーマに帰結していく、それに取り組む先生たちと生徒たち、向き合う大人たちと子どもたち。パオの映画、槙坪映画だなと、他の誰にも描けない魅力に溢れた作品だと感じたことを覚えています。

主体的に関わる大切さ

加えて、私がこの映画から受け取った視点は、様々な問題の本質は各論では語れないのではないか、ということでした。HIVに真剣に取り組めば、援助交際や売買春の問題が浮上してきます。いじめや差別問題を掘り下げれば、性暴力や薬物に苦しむ姿が浮き彫りになってくるかも知れません。学校で生徒が起こす問題を理解しようとすれば、家庭環境や保護者とも向き合う必要が出てきます。本来そうして有機的にからみあった社会問題を、細分化して分けてしまうことで、むしろ本質が見えなくなってしまうのではないでしょうか。

音楽にも当てはまります。これはロック、それはポップス、あれは……ネオクラシックとジャンルを分けた結果、音楽に出会う素直な喜びから遠ざかるような気がします。そういう表面的な違いから解放されて、もっと音楽を感じ、踊ろう、享受する場を自分たちが主体的になって作りだそう、そうして起きたムーブメントこそがレイヴ・カルチャーだと理解しています。その点において、1998年の私が、なかば直感的にこの映画の音楽をポストテクノで表現しよう、と決めた判断と姿勢はあながち間違っていなかったな、と思います。

なぜなら映画『わたしがSuKi』を観るたび、子どもたち大人たちが主体性を持って問題の本質に近づいていく姿が、理想的に描かれながらも同時に実践的であることの意味、大切さに気付かされるからです。

文・音楽 光永龍太郎みつながりゅうたろう

1976年生まれ。18歳で渡英しLIPA(リヴァプール芸術学院)で音楽専攻。George Martin, Brian Eno, Gary Carpenterらに師事。帰国後、映像音楽を中心にフリーランスの作曲家として活動。映画監督槙坪夛鶴子とプロデューサー光永憲之の子。パオの映画では第4作「わたしがSuKi」から音楽を担当。

映画『わたしがSuKi』の音楽

作品を印象づける曲の紹介・作曲者による解説

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# 曲名 解説 プレイヤー
M8 悲しいほど好き メインテーマをピアノとストリングスでアレンジ。亜紀の英樹への想いを表現。当時、全ての音を一台のシンセサイザーとサンプラー(※1)で鳴らして録音しています。
M14 ノーイレギュラー 映画『わたしがSuKi』サントラの中で唯一、生楽器(アコースティックギター)を使った曲です。メモリ容量がわずかで、生音は短い演奏のフレーズサンプリングを繰り返しています。
M16 木村エイジ TR-808のキック音(※2)から始まり、歪んだ音と透明感のあるシンセパッドが交差する授業シーンに流れる曲。木村先生の世代、70年代後期〜80年代初頭を意識したスクエアな曲調。
M22 エンディング ハウスミュージックが好きで、劇伴音楽にも歌入りで挑んだ曲。TR-909、矩形波パッド、コンプされたピアノ、跳ねた暑苦しい四つ打ち(※3)に乗った涼やかな歌声が今でも大好きです。
BG 沙弥香のテーマ 1998年当時、友人らと製作していたPC用ゲームで作った曲(※4)をBGMとして使いました。GM/XG音源準拠MIDIデータをシンセ音源で鳴らしたもの。映画冒頭の喫茶店内で流れます。
  1. 使用機材はKorg TrinityとAkai S3000XLで、プリセット音と混ぜています
  2. 足で踏むバスドラムの意。TR-808は日本が誇るRoland社製のリズムマシン
  3. 一小説に4つキックが入った音楽の俗称。特にダンス・ミュージックが顕著
  4. 曲名は「代々木第二女子」。学校の教室で友人らと会話をするシーン用の曲

英国の友人たちへの謝辞

帰国直前、友人のポールに娘が誕生したことを祝って、私は「Lola」という曲を贈りました。

気に入った彼は知人のDJに私を紹介してくれたのです。そのDJに会いに行くと、車に乗り込み一緒にカーステレオで曲を聴きました。彼から言われた感想は日本語にするとこんな風でした。「正直に言うよ、君は肌に色があるから、こんなギルバート・オサリバン風の曲を作っても誰も認めてくれないだろう。もっと自分のルーツに従うべきだ」そう言う彼は黒人でした。生まれて初めて音楽と自分という存在を結びつけて意識した貴重な体験でした。彼の真摯なアドバイスを受け、国籍や人種、肌の色に囚われない「自身の音楽とは?」を探求する生き方を私は選びました。